京湘鉄道歴史案① ~開業時から戦時統合まで~
2018年 11月 10日
京湘鉄道の歴史(この記事は架空の話です)
東京砂利鉄道→多摩川鉄道(→京湘鉄道立川線) 東京砂利鉄道は1910年に多摩川の川砂利を運搬するために国分寺から下川原までの区間が開業しました。 当初は川砂利運搬のための接続駅として国分寺駅を利用していましたがやがて独自路線で運搬するために大田区の大森を目指す事となりました。手始めに下川原駅から東進したときに多摩鉄道(未開業だった)とる-とが重なりあった為「共同使用」で路線を敷設し1920年に駒沢ゴルフ場駅(のちの駒沢公園)経由で大森まで開業しますが多摩鉄道を手中に収めた武蔵野鉄道(今の西武鉄道)が立川~大森間全線開業した東京砂利鉄道立川線を手中に収めるべく買収を狙います。
一方、東京南西部を地盤に固めつつあった東急電鉄がこの路線を目につけ買収案を提示したことで武蔵野鉄道との買収合戦にさらされてしまいますが上石原~立川間で路線を共有していた立川横浜電鉄を救済合併(立川横浜電鉄は横浜まで到達できなかった)する際に東急が関与したことから1935年に多摩川鉄道(東京砂利鉄道から改称した)を東急線に組みこもうとしたちょうどその時東京湘南鉄道(今の京湘鉄道京湘線)が武蔵野鉄道の力を借りて多摩川鉄道を買収してしまった為東急線に組み込む話はとりあえずお流れになって新生「京湘鉄道」が発足しました。
「京湘鉄道」になってからすぐに戦争の足跡が濃くなった1938年に「陸上交通事業調整法」が施行され西武鉄道資本から離れた「京湘鉄道」は西武鉄道の抵抗もむなしくいわゆる「大東急」の一部となってしまいました。(歴史案①立川線了)。
京湘鉄道は1925年に創業し1931年に恵比寿~平塚間を開業し、1932年には保養地である大磯(東海道線から少し離れていた)までの計画路線全線が開業しました。 創業時は天現寺橋から東京市電(のちの東京都電)に乗り入れる計画でしたが、1930年ころになると路面電車規格の低速で輸送力もままならない車両から計画が変更され新たに山手線の駅に隣接するターミナル駅から高速の電車を走らせる計画に変更し、創業から6年で開業させましたが、市電乗り入れの名残で軌間は1372mmとなっていました。この軌間がのちの京湘鉄道にとってのターニングポイントになるとは思いもよらせないことになりました。 開業時に用意された電車は1930年代にもかかわらず小型の木造車でした。それは沿線の人口が少なかったことに起因します。電圧も600vのままで長距離都市間輸送には不向きな条件ばかり揃ってしまっていました。しかしながら鉄道空白地帯を埋めるようにルート取りしたので鉄道開業は川崎中部や平塚などの工場が続々と建ったことや高座郡綾瀬村(今の綾瀬市)を通る初めての鉄道だったことで利用客が順調に増えて行き、1930年には早くも15m級鋼製車の3両編成が行き交う重要路線となりました。 そして1942年、沿線に帝国海軍厚木基地が設置されると路線の重要度が増してその分同線の輸送力も増えていきました。この時にネックとなったのが1372mmを採用したことで鉄道省の貨物列車が走れない問題でした。
鉄道省から改軌を指示された京湘鉄道は自力で改軌することが難しかったのでスポンサーとして武蔵野鉄道(今の西武鉄道)の協力を仰ぎ段階を経て改軌することになりました。ちょうどそのころ、東急に買収された多摩川鉄道と立川横浜電鉄(この2社1067mmだった)が改軌の資金不足を肩代わりする代わりに大東急の傘下に入り改軌作業を進めようとしましたが武蔵野電鉄が「京湘鉄道」が東急のものになることを激しく非難したものの当時の国策による陸上交通統制法では東京南西部は東急がまとめることになっていたので武蔵野鉄道は保有を断念し「京湘鉄道」は「東急東塚線」と「東急横立線」と「東急駒立線」に名称が変更になり車両も開業時から使用されていた日本鉄道自動車(のちの東洋工機)製から東急横浜製作所(今の統合車両製作所)製の電車が導入されました。(歴史案②京湘線了)。
立川横浜電鉄は奥多摩から産出される石灰石を横浜に運ぶことを目的とした南部鉄道系列の会社で1930年に立川から工事を進めていきましたが途中の地形の険しさや何より横浜周辺の土地買収に失敗して「横浜」と言いながら途中の川向まで引いたところで工事が止まってしまいました。
しかしながら路線が横浜に達しなくても将来横浜まで路線を延ばせれば大きな需要が生まれると判断した東急は南武鉄道から株式を買収し上石原~立川間で路線を共有していた「多摩川鉄道」もろとも傘下に組み込むことを目的として1934年に「多摩川鉄道」が経営が安定しなかった「立川横浜電鉄」をいわば救済合併の形で買収して「多摩川鉄道」の一部としましたがすぐさま西武鉄道系列の「京湘鉄道」に合併されてしまいました。。(歴史案③立浜線了)。
一方、平塚から伊勢原及び秦野地区には省線(のちの国鉄)の平塚駅から鉄道空白地帯であり、タバコ葉の生産地であった伊勢原・秦野線からタバコ葉を運送する手段として1907年に軽便鉄道を引く計画があり、その計画を後押ししたのが「大日本軌道」だったことから「大日本軌道平塚支社」の手で平塚~秦野線が敷設されました。
さらに同じく平塚から伊勢原間を路面軌道で結んだ「伊勢原軌道」が1918年に全線開業すると平塚から伊勢原盆地を結ぶ鉄道路線を一本化するため大日本軌道から路線を受け継ぎ新会社「伊勢原電気鉄道」の支線となった旧「大日本軌道平塚支社」を「伊勢原電気軌道秦野線」に生まれ変わりました。同時に旧「大日本軌道平塚支社」の線路幅を762mmの特殊狭軌から1067mmに改軌する工事と電化が行われ木造の路面電車が走り始めました。(歴史案④伊勢原線・秦野線終了)。
この後、戦中~戦後の話になりますが続きは考え中です。